道順を覚えたり,地図を見ながら目的地にたどり着くのは,それなりに難しく,得手不得手もあります.しかし,手を伸ばせば届く範囲,あるいは,見渡せる部屋の中,街角といった範囲では,物を探すこと・つかむこと,目標に向かって移動することなどが容易にできます.ましてや,自分に対して右と左の空間で,これらの行動に違いがあるということはありません.このような空間とごく普通につきあう能力においても,大脳は重要な役割を果たしています.右半球が壊れると,身体に対して左側の空間とつきあうことが難しくなってしまいます.今回は,この症状,左「半側空間無視」について解説し,リハビリテーションにおける対応の重要性を強調したいと思います.
リハビリテーションの病棟に行くと,いつも右を向いている患者さんがいます.左側から声をかけても,振り向くことなく右を探してしまうことが少なくありません.食事をとる時も,右側のお皿ばかりに手をつけ,左側の品物に手を伸ばそうとしません.また,図5のような食事で左側の果物のお皿が見つからず,「向かいの人には付いているのに自分にはない.」と言う場合もあります.このような患者さんの多くには,左半身の運動機能が障害されている左片麻痺があります.言語の障害「失語」を伴いやすい右片麻痺の患者さんとは対照的に,普通に会話ができます.左半身の運動麻痺ですから,右利きの人にとって利き手が使えて,不自由が少ないように見えるかもしれません.しかし,左側の空間とつきあえない半側空間無視があると,リハビリテーションの進行が遅れ,自分でできる日常生活の範囲を広げるのに苦労します.
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| 図5. 左側にあるお皿・品物がしばしば見つかりません.180度回転した向かいの人の食事を見て,「バナナ」に気づいても自分の食事にはないと思ってしまいます. |
リハビリテーションの病院や病棟は,段差の解消や手すりの取り付けなどに気を配り,運動麻痺があっても過ごしやすいように造られています.しかし,半側空間無視と左片麻痺がある患者さんは,身の回りのことやわずかな移動の場面でも様々な困難や危険に直面します.上着を着る時も,しばしば袖の左右が見つからなくなり難渋します.左手の運動麻痺があれば,そちらから先に袖を通さなければならないのですが,これに苦労します.また,左側がうまく着られていなくても気づかないことがあります.ベッドを起こして座れるようになったら,リハビリの時間以外でも横になって休んでいるわけにはいきません.操作が自分でできるかどうかにかかわらず,車椅子に座っていられる時間を延ばさなくてはならないのです.ここで,車椅子とベッドとの間の乗り移りという重大な問題が生じます.立ちあがる力がついてくると,左片麻痺の患者さんは自分で乗り移ろうとすることがしばしばです.これには,右半球が壊れると左半身の運動麻痺に気づかない症状「病態失認」,あるいは,麻痺を深刻に捉えない症状「病態無関心」も関係しています.患者さんは,やればできるという意識があるのです.このとき,半側空間無視があるとどうなるでしょうか.ベッドに乗り移る時には,車椅子を適当な位置に止めて左右のブレーキをかけます.半側空間無視患者さんは,この時,左側のブレーキをかけ忘れることが少なくありません.また,両足をフットレストからおろしてから立ちあがらなければなりませんが,左足のおろし忘れも起こります.いずれかを忘れると,立ちあがる時に,車椅子が移動したり傾いたりして,転倒の危険があります.このため,乗り移りの際には介助や見守りが必要であり,必ずナースコールするように伝えておきます.
この症状も,右半球に脳卒中などが起こった後,徐々に改善してきます.しかし,1か月以上続いた半側空間無視は,完全には消失しません.移動能力については,徐々に左足に支える力が出てきたり,また,右足と杖をうまく使うことを練習して,歩けるようになることも少なくありません.また,これが難しい場合は,車椅子を操って動き回れるようになります.こうして行動範囲が広がると,空間における新たな危険や問題が生じてきます.左側の物,柱,人にぶつかる,左に曲がれず道に迷うなど,それほど広くない病棟や病院の中でも難しい課題が山積みです.院内の公衆電話で自宅に電話をかけようとしたら,左側の「1」,「4」,「7」のボタンが見つからないということもあります.また,会話は普通にできますが,新聞を読んだり読書をしようとすると,改行がうまくできず,意味がつながらなくなって混乱します.
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| 図6. 典型的な半側空間無視の検査所見です.線分抹消試験では,短い線のすべてに印を付けるように言われても,左側のものを見落します.20cm位の水平な線分の真ん中を見つけられず,右に偏ります.さらに,花の絵は,「ヒマワリ」のような花とわかっても,左側を描き落とします. |
したがって,リハビリテーションを行うにあたって,半側空間無視を正確に診断し,また,その経過を把握することが必須です.私どものリハビリテーション研究部門では,国際的なBehavioural inattention test (BIT)という検査法の日本版を作成し,「BIT行動性無視検査」として出版しています.図6は,典型的な半側空間無視患者さんの検査結果です.左側を探せず見落す,花が右半分しか描けない,水平な線の真中が見つからない,といった症状が見出せます.この検査では,かなり軽い半側空間無視でも正確に診断できます.しかし,代償能力が高く慎重で,「試験は得意」という人もいます.検査は何とかクリアしても,実際の日常生活で問題が起こることがないわけではありません.このような場合でも,半側空間無視の存在を見逃さないために,私どもはBITパソコン版を開発しました.まだ,発売には至っていませんが,パソコンに反応の過程を詳しく記録し分析することによって,問題点のより正確な予測が可能となります.
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| 図7. 軽い半側空間無視も見落さないようにするために開発したBITパソコン版です.紙と鉛筆の検査と同様に,液晶タブレットにペンで描いて実施しますが,反応経過がパソコンに記録されて問題点を詳細に分析できます. |
左側の空間とつきあえず,花の絵も半分しか描けない,といった症状をみると「珍しい」と感じる方も少なくないと思います.ところが,半側空間無視は,脳卒中が右大脳半球に起こった患者さんに良く見られる症状なのです.左手足の運動麻痺などがあってリハビリテーション目的で入院している患者さんでは,程度の差はありますが,4割以上に半側空間無視が伴っています.半側空間無視は,図8に示したように,脳のやや後方の頭頂葉を壊すか,そこへの配線(神経路)を絶つ病巣でしばしば起こります.脳梗塞や高血圧性脳出血はまさにこの付近が好発部位です.
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| 図8. 右大脳半球を右側から見た図です.半側空間無視は,頭頂葉後部の下半分をしめる「下頭頂小葉」を含む病巣で良く起こります. |
さらに,図9にMRIまたはCTの模式図を示しますが,半側空間無視は,前頭葉や後頭葉(+視床)など頭頂葉以外の病巣でも起こります.このため,右半球が脳卒中などで損傷された場合には,半側空間無視が起こっている可能性をいつも考えてリハビリテーションを進めなければなりません.
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| 図9. MRIまたはCTで大脳を水平に輪切りにした模式図です.Aが図8で示した頭頂葉の病巣ですが,より広範囲のBのような病巣で重い半側空間無視が起こります.さらに,前頭葉(C),後頭葉+視床(D),深部病巣(E)でも半側空間無視が起こることがあります。 |
半側空間無視の患者さんは,食事のお皿が見つからなかったり,物にぶつかったりするといった体験を覚えています.しかし,なぜそうなったのか?―その原因を理解していません.花の絵は半分に見えたからではなく,「ヒマワリ」とわかっていて半分しか描かず完成と思ってしまうのです.そこで,左側の無視症状について,患者さんの視線や指先を誘導して確実なフィードバックを行います.うまくできないことに気づくことを「病識」といい,これを高めることが必要です.ただし,左半球の機能である言語の能力が保たれているため,しばしば,言葉ではわかっているという状態になるので注意が必要です.「リハビリの先生に注意されるので,左側もしっかりと見るようにしています」という患者さんは少なくありませんが,行動をみれば半側空間無視が残っていることがすぐにわかります.
車椅子の左ブレーキを忘れることについて述べましたが,左側を確認してもらうことが半側空間無視を克服するために必要です.このとき大切なことは,具体的な左側を示すことです.患者さんが思っている「左」は,実際の物や枠組みの左側よりもだいぶ右に偏っています.そこで,食事が載っているトレイの左端(左手前)に「目印」を付けて,そこを確認してもらいます.最初は,せっかく目印を見つけても,すぐに右に戻って左のお皿を食べ残すということもあります.しかし,繰返し練習すれば,左側のものを見つけやすくなり,慣れた場面では目印なしでも無視が目立たなくなります.もう一つは,言語の能力を上手く応用して,左側への反応をよくすることです.運転士さんがするように,車椅子では,「右ブレーキ!,左ブレーキ!」のように喚呼します.この時,右手で右→左と触れて確認することを怠っては意味がありません.花の絵が半分しか描けない場合でも,「花びらをぐるりと一周するまで描いてください」というだけで左側も描けてしまいます.このように,克服すべき課題に適した助言を行うことも大切です.
以上のような方法は,頭で言葉で考えて実行に移す「トップダウン式」の代償方法です.これとは対照的に,見て反応する感覚と運動の基本的メカニズムに介入して,左右の空間への反応性の偏りを矯正しようとする「ボトムアップ式」の改善法が最近研究されています.たとえば,外界が右にずれて見えるプリズム眼鏡による方法があります.プリズム眼鏡をかけて物に手を伸ばすと,最初は見当がはずれて右の方をつかもうとしてしまいます.しかし,人間の順応能力はたいしたもので,繰返し練習すると上手くつかめるようになります.こうして脳に新しい感覚と運動の順応状態を追加すると,半側空間無視が改善することがあるのです.このほか,首の後ろの筋肉にバイブレーターを当てて,体の向きの錯覚を引き起こす方法なども検討されています.私どものリハビリテーション研究部門では,トップダウン式とボトムアップ式の改善法を適切に組み合わせた方法を開発していく予定です.