フェロモンの話も最終回になりました。今回は、ヒトのフェロモンについてです。これは、皆さんの興味をもっともさそう話題かもしれません(したがってシリーズの第3話のみに目を通そうとする方が多いかもしれませんが、是非第1話を、できるなら第2話も一読のあと、この第3話をご覧ください)。残念ながら期待に反して、不確かな点がたくさんあります。一言で言うと、ヒトにフェロモンがあることは間違いないと思われますが、その化学構造について、あるいはフェロモン情報がどのように受容され脳に作用しているかなどはほとんど明らかになっていません。したがって、ヒトのフェロモンについて述べるのは、かなり推測をともなったものになってしまいます。そこで、ヒトのフェロモンおよび鋤鼻系について、これまで知られている事柄を簡単に解説し、その問題点を整理し、最後に推測もふくめて「仮説:ヒトのフェロモン作用機序」をお話ししたいと思います。
ヒトにおいてフェロモンの存在を示した重要な報告はMacClintockによる1971年の論文です。彼女は、寮生活している女子学生のアンケート結果から共同生活が始まると月経周期が同調すること、いわゆる寄宿舎効果を明らかにしました(彼女自身も寮生活をする学生のひとりであったとのことです)。その後、1998年に、女性の腋からの分泌物を別の女性にかがせると月経周期に影響を及ぼすことを明らかにしました。卵胞期の分泌物は女性の排卵を促進することにより月経周期の短縮を誘導し、排卵期の分泌物は排卵の遅延をおこし月経周期の延長をもたらします(図10)。このため月経周期が同調するのです。腋のアポクリン腺から分泌される物質のなかにフェロモンが含まれていると思われますが、いかなる物質が効果を引き起こすのかについては明らかにはなっていません。見つかると臨床的には重要な物質となるでしょう。
![]() |
| 図10. ヒトのフェロモンによる排卵周期の調節メカニズム |
フェロモン提供者からの、卵胞期のフェロモンは被験者の卵胞期を短くすることにより月経周期を短縮し、排卵期のフェロモンは卵胞期を長くすることで月経周期の延長を誘導します。黄体期、月経期には影響を与えません。これら2種類のフェロモンの作用が月経周期の同調を誘導します。(Stern & McClintock, Nature 1998を参考に結果を要約しました)
ヒトのフェロモンとして同定されている物質の一つは、第1話でも紹介したように、PDD(pregna-4,20-diene-3,6,-dione)です。ヒトの皮膚から抽出されたフェロモン候補物質の中から見つかりました。この発見当時のフィーバーぶりは1993年9月7日のニューヨークタイムスの科学コラムにも現れています。その中で、「鋤鼻器で感知するフェロモンこそが第六感の本体ではないか」と述べています。ニオイ物質を嗅覚器に吹き付けると緩やかな負の電位変化が現れます。これは嗅電図とよばれ嗅覚検査に用いられます。皮膚からのフェロモン候補物質を成人の鋤鼻器に吹き付けて生ずる嗅電図と類似の電位変化を指標に検定し、PDDを同定しました。効果は内分泌系のみならず自律神経系にもおよぶことが示されています(図11)。しかしながら、この結果に関しては、刺激方法や電位記録の方法また自律神経活動の記録法など技術的な問題点が指摘されています。さらに、他の研究グループによる追試験などがおこなわれていないことなど、まだまだ、ヒトのフェロモンとして「認定」するのは、問題がありそうです。
|
||||||||||||||||||||||
| 図11. ヒトのフェロモン候補物質PDDの男性に対する効果 Berliner 他 (J Steroid Biochem Mol Biol 1996)の論文を引用して、その結果をまとめた図です。 |
別に、候補にあげられている物質がアンドロステノンです。アンドロステノンを散布した椅子に好んですわる頻度を計測した結果、女性では有意の増加をしめし、男性では逆に減少したという報告があります。また、鼻腔にアンドロステノンを散布すると内分泌バランスなどに影響を与えるという報告もあります。しかし、いずれも、試験方法の問題点が指摘されています。
他にも、特許とか企業秘密の問題で、公表されていない物質もあるとおもいます。いずれにしても、動物のフェロモンに比べて、生物検定法に難点をかかえており、「ヒトのフェロモン物質で確定されたものはまだない」といった方が良いかもしれません。
ヒトにフェロモンが存在することはほぼ確かなものとなってきたのですが、実は、大きな問題点があります。それは、「ヒトに鋤鼻系は存在しない」という事実です。解剖学の教科書には、「ヒトの鋤鼻器は胎児期あるいは新生児期には存在が認められるが、大人になると退化して、仮に存在しても痕跡程度である」と記載されています。最近の研究で、ヒト成人の鋤鼻器は鼻中隔前下方に開口する小孔あるいは粘膜の陥凹といわれ、成人の鋤鼻器を持つ割合は3割から10割と報告によって様々です(図12)。また、鋤鼻器が存在しても機能しているか疑わしい、と報告されています。臨床的にも、鼻腔の手術で鋤鼻器の損傷を受けることがありますが、その患者が治療後に何らかの障害を認めた報告はないといわれています。痕跡なのか働いているのか、ヒトの鋤鼻器の機能については明確ではありません。さらに、ヒトの鋤鼻系にとって重大な事実は、第1次中枢の副嗅球が存在しないということです。我々も、医学部解剖学教室の先生に協力をしていただき、副嗅球の存在を調べましたが、みつけることはできませんでした。ただし、副嗅球より中枢に位置する、扁桃体の内側部および視床下部は存在します。
![]() |
| 図12. ヒト成人における鋤鼻器の保有率 |
ヒトの鋤鼻器は機能しているか怪しい、また何割かのヒトは鋤鼻器は保有していない、さらに鋤鼻器があっても副嗅球が存在しない、つまりヒトには神経経路として鋤鼻系がないのです。では、どのようにして、フェロモンは受容され、機能発現をしているのでしょうか。
2000年に興味ある事実が報告されました。分子生物学的研究により、ヒトフェロモン受容体の遺伝子が同定され、存在部位を調べた結果、嗅覚器内にフェロモン受容体の遺伝子の発現が示されました。我々も、ヤギでフェロモン受容体の遺伝子が嗅上皮で発現していることを確認しています(もちろん、ヤギのフェロモン受容体の殆どは鋤鼻器に発現します)。あくまでも、遺伝子の発現があきらかにされただけで、まだ受容体分子の存在は確認されていません。しかしながら、ヒトフェロモン分子は嗅上皮で受容されている可能性があります。
これまで、お話ししてきたことをまとめてみますと、(1)フェロモン物質は確実なものはまだ同定されていないが、フェロモン効果は認められていることから、ヒトにはフェロモンは存在する、(2)ヒトには他の哺乳類と同じ鋤鼻系は存在しない、ということになります。
そこで、ヒトでフェロモンが働いているとすれば、ヒト以外の哺乳類の鋤鼻系とはべつの伝達経路を推理する必要があります。その一つの経路は嗅覚系です。さきに、ヒト嗅覚器にフェロモン受容体が存在する可能性をお話ししました。これが事実だとすると、フェロモンを嗅覚器内の嗅細胞が受容し、主嗅球に運ばれます。主嗅球からの線維は大脳辺縁系の外側部に広く分布します。その一部は扁桃体にも投射しています。この主嗅球からの線維が投射する扁桃体部域から、鋤鼻系の中枢として働く扁桃体内側部へ情報が運ばれることができれば、視床下部までフェロモン情報が運ばれます(図13)。現在、この扁桃体内経路の有無について検討がおこなわれています。もう一つの可能性は、終神経の存在です。終神経は、ヒトも含め哺乳類一般に存在、自律神経系の一つに分類され、中枢枝は脳内で大脳辺縁系や視床下部にも投射しているようです。末鞘枝は鋤鼻器に分布しています。このことから、ヒトの場合この終神経がフェロモン情報を運んでいる可能性があります。つまり、フェロモンは鋤鼻器で受容され、終神経を経由して大脳辺縁系の扁桃体内側部や視床下部に運ばれるという考えです(図13)。それには鋤鼻器がフェロモン受容機能を有することが前提となり、また鋤鼻器がないヒトにはこの系は機能しないことになります。この説が正しいとすると、フェロモンの感受性がヒトにより差があり、それが、鋤鼻器の有無によるということになるかもしれません。
![]() |
| 図13.ヒトにおけるフェロモン情報伝達の仮想経路 鋤鼻系第1次中枢の副嗅球の消失にともない、フェロモン情報は鋤鼻系以外の経路で扁桃体・視床下部まで運ばれる可能性を示した神経路です。 |
いずれの説にしても、ヒト以外の哺乳類の鋤鼻系とは異なる神経経路を利用して、フェロモン情報が扁桃体の内側部あるいは視床下部に到達し、最終的には内分泌系および自律神経系を制御するというものです。ヒトのフェロモンの作用機序が明らかになるには、まだ、様々な検討が必要です。
今回は、ヒトのフェロモンについてお話ししましたが、まだまだ、未解決の内容がたくさんあります。そのなかで、注意しなければいけないのは、「仮に、フェロモンが存在して、我々が受容したとしても、他の五感のように認識できない」ということです。神経回路から判断すると、フェロモン情報は脳の高次中枢の大脳皮質に到達しない可能性が高いのです。つまり、フェロモン情報を特定の感覚として認識できないとおもわれます。いわゆる、意識下(サブリミナル)な情報として、脳に入力します。したがって、動物では、本能行動とよばれる行動を引き起こします。「あの人とは何となく波長があって、そばにいると心が和む」とか「なぜだかわからないが、あいつとは相性が悪い、一緒にいるとイライラする」とか「あの子が隣にいると、どうも、年甲斐もなく胸がときめいてしかたがない」といった、理屈では説明の付かない心身の反応には、本人も気がつかない状態でフェロモンが関与しているのかもしれません。ヒトのフェロモンについての研究には、今後は心理学的な解析も必要となると思います。
フェロモンの受容体遺伝子の研究を契機に、鋤鼻系に関する研究は飛躍的に進展しました。今後もさらに発展すると思います。ヒトは、視覚の発達とともに、鋤鼻系を含めた嗅覚機能のかなりを失ってしまっています。しかし、その高次中枢の基本構造である大脳辺縁系、視床下部はしっかりと保持されています。脳の中で、この部位は「情動」や「本能」にかかわるとされています(大脳皮質の高次脳機能に対して、このような機能を低次脳機能とよぶ研究者が増えてきています)。最近、高度文明社会におけるヒトの「心身の異常」がクローズアップされつつあります。一つの原因に、高次脳機能優先の社会環境をあげることも可能だと思います。ヒトにおいても、「フェロモン」がケミカルコミュニケーションとして情動や本能機能に関わる可能性はあります。ヒトが高度文明社会のなかで、忘れてしまっている嗅覚系、フェロモンについて、これからは十分に理解する必要があると思います。