私たちは人生の中でいろいろな選択・意思決定場面に直面します。例えば,(1)今日の昼食はおそばにしようか,うな丼にしようかというような「日常的な」場面,(2)長期休暇には自宅でのんびりしようか旅行に出ようか,旅行にでるとしたら国内か海外か,などのよくある「身近な」場面,そして(3)どの学校を受験するのか,今付き合っている彼あるいは彼女と結婚すべきか否か,今の仕事を続けるべきか見切りをつけて別の仕事に早くつくべきか,というような「人生の岐路になるような」場面まで,いろいろな場面があります。こうした意思決定場面において,出来るだけ多くの情報を集め,それに基づき理詰めで結論を得る,という場合には知的機能に関わりが深い前頭葉の外側面が重要な役割を果たします。
しかし人生においては,理詰めの思考をする上で必要な情報は決定的に不足していて,いくら考えても「これしかない」というような解は見つからない場合が多いものです。しかし現実には私たちはその時々で必要な意思決定を迫られ,そして実際にそれを行っています。そうした場合には前頭葉の腹内側部(図8)と呼ばれる部位が重要な役割を果たしていると考えられています。
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| 図8. 前頭葉腹内側部を示す
黒く塗りつぶした部分が前頭葉腹内側部。Aは脳を右の側面から,Dは左の側面からみたもの。Cは脳を真下から見たもの(上方向が前)。B,Eは左右の脳を中心で2つに割ったそれぞれ右側(B)と左側(E)。 (Damasio, A. Descartes'Error, Grosset/Putnam 1994より改変)。 |
こうした意思決定,特に色々な選択肢がありうる中で「正解」というべきものがそもそもあるかどうかはっきりしないような状況で人の行う選択には,ある特有の傾向が見られることも知られています。こうした傾向について詳しく分析したのがツベルスキーとカーネマンという2人の心理学者です。なおカーネマンはその分析を人の経済行動に応用し優れた成果を得,2002年のノーベル経済学賞を受賞しています。彼らは人の意思決定の過程が必ずしも論理的な道筋に沿ったものではなく,一見論理的に見えながら,かなりの部分が背後の知識,文脈,期待,その時の感情などに依存した,直感的で「ヒューリスティック」(論理的思考が容易でない,あるいはそうしている時間的余裕がないときなどに,さし当たって到達する「それなりにもっともらしい」解決策)なものであることを示しています。そしてそのヒューリスティックな結論は,最適解ではないまでも,「適解」に近い場合が少なくないとされているのです。
ところが意思決定においていつも適解とはほど遠い結論を出してしまう人たちもいるのです。最初に紹介したフィネアス・ゲージもその一人であったと言えます。彼より詳しく調べられた人に「現代のフィネアス・ゲージ」とも呼ばれるエリオットの名前で知られる患者がいます。商社で働いていたエリオットはかつてはよき夫,よき父であり,個人的にも,職業的にも,社会的にも,人の羨むような立場にありました。しかし前頭葉の脳腫瘍にかかりその切除手術を受けてから人生が大きく変わってしまったのです。
手術後もエリオットの知能指数は正常以上であり,認知や記憶の障害は見られません。しかしそれとは対照的に,「社会的知能」の点で大きな障害が見られるようになったのです。例えば,当面している事態が重要なものなのか些細なものなのかを評価したり,これからやらなければならないいくつかの事柄の間に優先順位をつけたりする場合,社会的な常識から大きくかけ離れた判断をしてしまうのです。
このエリオット,そしてこうした行動傾向を持つ人たちに障害が見られるのが,前頭葉の「腹内側部」と呼ばれる部位です。この部位は色々な感覚情報を受け取る部位であるとともに,扁桃核を中心とした辺縁系と密接に結びつき,体内,内臓情報や感情,動機づけ情報も受け取っています。神経生理学的,神経心理学的研究によれば,この部位は外的刺激と情動,動機づけ情報を結びつけるのに最も重要な役割を果たしていることが示されています。
エリオットを詳しく調べた脳科学者ダマジオは,こうした意思決定における障害の生じるメカニズムに関し「ソマティック・マーカー仮説」を提唱しています。この仮説は次のようなものです。まずこのソマティックという用語ですが,ダマジオは情動,動機づけには常に身体的,内臓系の反応が付随すると考え,そうした身体的,内臓系の反応を「ソマティック反応」と呼んでいます。先に述べたように,(1)前頭葉腹内側部は外的な刺激とそれに伴う情動,動機づけを連合する場所と考えられています。(2)そしてこの連合が成立している場合には,外的な刺激が認知されると,腹内側部でその連合に基づいたソマティック反応を身体,内臓系に生じさせる信号が出ますが,その信号は「良い」あるいは「悪い」という価値に従いマークされています。(3)このマーク機能は意思決定を効率的にするように作用する,と考えるのです。
例えばオプションXの選択が悪い結果Yをもたらし,併せて罰とそれによる苦痛の身体状態を引き起こすという経験をすると,ソマティック・マーカーのシステムはこの経験に基づくXとYとの結びつきを形成します。その後,その人がオプションXに再度直面するとか,結果Yについて考えるようなことがあると,ソマティック・マーカーは苦痛の身体状態を再現するように働き,「危険!」といった信号を送る,と考えるのです。
私たちは日常生活において,数多くの行動オプション1つ1つについて将来の帰結を合理的に推論し,その中から最適なものを1つ選択するというような余裕はもっていません。ソマティック・マーカーは,その「素早く出る」という特性を活かし,合理的推論の前に適切なシナリオを自動的に検出し(じっくり考慮するに値しないものを即座に切り捨て),われわれが少数の選択肢から選べるようにしていると考えられます。そして合理的推論がなされるのは,この自動化された段階を経たあとのことである,というのです。つまりソマティック・マーカーはある行動とその帰結の対を迅速に拒否したり,支持したりすることにより,意思決定を援助していると考えるわけです。カーネマンのいうヒューリスティックに基づく意思決定にもこのソマティック・マーカーは重要な役割を果たしているのではないかと考えられます。
ダマジオはこのマーカーが意識されることもあれば無意識に作用する場合もあると考えています。身体状態の信号が活性化されても,何らかの理由によりそれに注意が向けられず意識にのぼらない場合でも,その信号が外界に対する我々の欲求的または嫌悪的態度を無意識のうちに支配しているメカニズムに作用しうると考えているのです。
腹内側部が破壊されたエリオットのような患者においては,外部状況が認知されても通常なら生起するソマティック・マーカーが起こらないため,多数存在する選択可能性のある行動とその帰結が「同様な」情動的な意味や価値しか持たないことになります。その場合は意思決定の過程はもっぱら論理操作の過程となり,マーカーがあれば可能であるような迅速,適切な行動が出来なくなると考えるわけです。
ダマジオはこうした患者の障害の特質を詳しく調べるために「ギャンブルゲーム」を用いた実験を行っています。そこでは被験者の前に4組(A,B,C,D)のカードの山がおかれます。一定の額の金券を貸し与えられた被験者は,どれかのカードをめくると必ずある額の金券をもらえますが,それと同時にカードによっては手持ちの中からある額の金券を差し出さなければならない場合もあると教示されます。ゲームでは,1度にどれかの組のカードを1枚めくります。AかBの組のカードをめくると,常に比較的大きな利得がありますが,カードによっては1回の利得の10倍以上もの損失を被ることもあります。CかDの組のカードをめくると,常に小さな利得しか得られません。またカードによっては(利得よりは大きいものの)比較的小さい損失を被ることもあります。被験者は最終的な利得を出来るだけ大きくするように求められています。なお,いつこのゲームが終了するのか,どのようなストラテジーで反応すると最終的な利得が大きくなるかは被験者にわからないようにしてあり,被験者はいはば「あて推量」で反応するわけです。始めは健常者も損傷者もAかBの組のカードを多く選びます。しかしこれらの組のカードを選ぶと時々痛い目に会うことを経験すると,健常者は次第にCかDの組のカードばかりを選ぶようになります。一方,損傷患者は金券をどんどん失いつつあることがわかりながら,相変わらずAかBの組のカードを選び続け,最終的に大き損失を被ることになります。
ダマジオによると,健常者なら「あぶない」組のカードを取ろうとすると,それに対して「ソマティックな反応」が生じ,それによってそのカードを取らないことにします。しかし前頭葉の腹内側部損傷患者では,「あぶない」組のカードに対してそうしたソマティックな反応が生じないために,そのカードを取ってしまうと考えるわけです。 ダマジオらはそのことを確かめるために,ゲーム中に皮膚電気反応を記録してみました。すると予想通り,あぶない組のカードをめくろうとする時に,健常者には見られる皮膚電気反応が損傷患者には見られなかったのです。この身体的な反応は,多くの場合無意識的に生じるとされ,私たちの判断は無意識のうちにこの身体的反応の有無によって決定されると考えるわけです。
ダマジオの説は,思考における感情の果たす役割や,無意識的判断というものについて1つの神経的基礎を与えるもので,多いに注目を集めています。しかし,彼の説に批判がないわけではありません。前頭葉腹内側部の損傷患者では判断過程に障害があるとしても,腹内側前頭葉の働きによるソマティック・マーカーが,我々の判断の過程に実際に重要な役割を果たしているのかどうかについては,皮膚電位反応による傍証がある程度で,実証されているとは言い難いのです。イギリスの脳科学者ロールズなどは,ダマジオの説を,「悲しいから泣くのではなく,泣くから悲しいのである」という,情動の身体起源説であるジェームス・ランゲ説の焼き直しに過ぎないと評しています。